[2019/02/25]
尾崎豊 [INFP]
今回はかつて「10代の教祖」や「若者のカリスマ」として一世を風靡した尾崎豊について、
彼の代表曲の一つである「卒業」をもとにして解説していきたい。
まず、
この曲のテーマの主軸は自分自身(Fi)と社会(Te)の狭間における葛藤にあると考える。
自身の気持ちと境遇を回想しながら(Fi-Si)、物事の隠された本質に気づく(Ne)といった曲の構成となっている。
また、
自由の意味について深く考える点においてN型らしさが端的に表れている。
以上から、
尾崎豊のタイプをINFPであると判定した。
以下、
具体的な根拠について歌詞を交えながら解説したい。
「校舎の影 芝生の上 すいこまれる空 幻とリアルな気持ち 感じていた」
- 解説 -
卒業してこれからは自分好きなように振る舞えることを想像して浮ついた気分(Ne)と、
学校生活が終わることを改めて実感させられる(Si)思いとが交錯している状態。
「チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り 何に従い 従うべきか考えていた ざわめく心 今俺にあるもの 意味なく思えて とまどっていた」
- 解説 -
いつものように(Si)抱いていた疑問(Fi-Ne)について、
晴れて学校を卒業することになったが(Te)、
むしろ抱えていた疑問それ自体の矛盾にふと気づいてしまう(Ne)。
その矛盾とは何なのかは曲の終盤にて明かされる。
「行儀よくまじめなんて 出来やしなかった 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった 逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった」
- 解説 -
学校の規則等(Te)に対する反発心(Fi)と、
自分の好きなように振る舞える自由(Fi-Ne)を手にしようと日々足掻いた様子を回想。
「うんざりしながら それでも過ごした ひとつだけ 解っていたこと この支配からの 卒業」
- 解説 -
「うんざりしながら それでも過ごした (Si) ひとつだけ 解っていたこと この支配からの 卒業 (Fi-Te)」
「力だけが必要だと 頑なに信じて 従うとは負けることと言いきかした」
- 解説 -
自身の心(Fi)を抑え込むかのように、
力というものが求められる現実を盲信し対抗する(Te)。
「理想の愛 それだけに心奪われた 生きる為に 計算高くなれと言うが 人を愛すまっすぐさを強く信じた 大切なのは何 愛することと 生きる為にすることの区別迷った」
- 解説 -
「理想の愛 (Fi-Ne) それだけに心奪われた 生きる為に 計算高くなれと言うが (Te) 人を愛すまっすぐさを強く信じた (Fi) 大切なのは何 (Ne)愛することと (Fi) 生きる為にすること (Te) の区別迷った (Ne-Si)」
とりわけ有名なフレーズではないものの、
この曲の主人公の気持ちを端的に表しているフレーズである。
「卒業して いったい何解ると言うのか 想い出のほかに 何が残るというのか」
- 解説 -
学校という自分を縛るもの(Te)がなくなれば好きなように生きることができるはずだ(Fi-Ne)と足掻き続けてきたが、
卒業を目前にしてただ月日が過ぎただけに過ぎないという現実(Si)に空虚さを覚えた(Ne)。
「人は誰も縛られた かよわき子羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか 俺達の怒り どこへ向うべきなのか」
- 解説 -
「人は誰も縛られた かよわき子羊ならば (Ne) 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか (Ne) 俺達の怒り どこへ向うべきなのか (Fi-Ne)」
社会の本質に気づいてしまった(Ne)ことを表すフレーズ。
敵対していた教師達(Te)とて、
あらゆるしがらみに縛られたある意味ちっぽけな人間の一人に過ぎない(Ne)のである。
その意味では、
学校や社会に反抗していた自分達と変わらない境遇にある(Ne)とも言え、
だとすれば我々はいったいどこで、
何に対して自由を見出せばよいのだろうかといった問いかけ(Fi-Ne)。
「これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう」
- 解説 -
「これからは 何が俺を縛りつけるだろう (Ne) あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう (Fi-Ne)」
学校を卒業(Te)したとしても、
社会人として何らかのしがらみの中で生きる(Te)ことは確かである(Ne)。
つまり、
社会と敵対すること(Fi-Te)にもはや意味はなく、
自分自身の心に問いかけること(Fi-Ne)によってのみ本当の自由を手にすることができる、
ということなのだろうか(Ne)、といったように結論と新たな疑問が生じたところで曲が締めくくられる。
一つの気づきによって、
また別の疑問が湧いてくるというNeらしい心理状態であると思われる。